なぜ収奪されるのか? どう回避できるのか? 労働法制、雇用慣行、企業統治、イノベーション……日本経済の長期停滞をよみとく際の「死角」や誤算を白日のもとに晒し、社会が陥りかけている「収奪的システム」から抜け出す方途を明示する。予測的中率に定評のある最注目のエコノミストによる、まったく新しい経済分析の渾身の快著。 実質賃金・生産性・物価にまつわる誤算/人手不足と残業規制という死角/日本型雇用制は生き残れる/略奪される企業価値 …… 経済構造に関わるあらゆる謎が氷解する。
第1章 生産性が上がっても実質賃金が上がらない理由
賃金が上がらない原因として、以下のように挙げているが、そもそもこの問題の背景には1990年代末から2000年代初頭の金融危機において、銀行が不良債権の処理に追われ、企業への融資を引き揚げる「貸し渋り・貸し剥がし」が多発し、銀行に頼らず、手元のキャッシュ(内部留保)だけで自社を守るしかない」という自衛意識が定着したことも忘れてはならない。
p.39 生産性が上がっているにも関わらず、企業が実質賃金を抑えこむから、個人消費が低迷しているということです。それゆえ、企業は国内で売り上げが増えませんから、採算が取れないため国内の投資の投資が抑えられ、投資を行うとしても海外ばかり、となっているのです。
消費税でもし増加分を賄っていれば、増税によって非正規労働者は増えなかったかもしれない。
p.58 それまで多くの場合、従業員のほとんどが正社員として雇われていましたが、アウトソーシング(外部委託)が一般的となり、良好な雇用機会は減っていきました。この結果、経済成長の恩恵が一部の人々に集中するようになりました。...日本で非正規雇用が増えたのは、2000年代の小泉純一郎時代の社会保障制度改革も大きく影響していることを付け加えておきます。当時、高齢化で膨らんだ社会保障費の財源を、日本政府は、現役世代の被用者の社会保険料の引き上げで賄いました。被用者の社会保険料の増大は、企業にとって、正社員の人件費の拡大につながります。このため、人件費の抑制を最優先する企業経営者にとって、社会保険料増大は、正社員の拡大を抑え、非席雇用を増やすインセンティブとなってしまったのです。意図してなかったとはいえ、政府の行動が非正規雇用の増大を助長したわけです。
日本ではアメリカのように柔軟な解雇が法的に認められていない背景には、戦後の労働運動や最高裁判所の判例を通じて形成された解雇権濫用法理という強力な法原則が存在する。アメリカの多くの州が採用する、雇用主も労働者も理由なくいつでも解雇・退職できる随意雇用の原則とは異なり、日本では労働基準法や労働契約法に基づき、解雇には客観的に合理的な理由と社会的相当性が厳格に求められる。これらを欠く解雇は「権利の濫用」として無効とみなされるため、企業は実質的に労働者を容易に解雇できず、終身雇用を前提としたメンバーシップ型の雇用慣行や、裁判における厳格な解雇回避努力の義務が日本独自の雇用社会を形作ってきた。
一方、このような従来型のの会社が人を守る・辞めさせない代わりに転勤や配属も言いなりになる(メンバーシップ型)」という暗黙の契りが限界を迎えてはいる。政府や経済界は、職務内容を明確にしたジョブ型人事への移行や、成長分野への労働移動をスムーズにするためのリスキリング支援に舵を切っており、会社にしがみつかない多様なキャリア選択を後押しする動きが強まっている部分もある。
第2章 定期昇給の下での実質ゼロベアの罠
p.79 ゼロインフレのもとで、ゼロベアが大きな不満もなく、大企業の社員に広く受け入れられてきたのは、継続雇用が約束されたからだけではありません。昇給、昇格によって、毎年2%弱の賃金上昇が日本の長期雇用制に組み込まれているからです。大企業の正社員にとっては、ベースアップがゼロであっても、年功序列のもと、右肩上がりの賃金カーブに沿って、毎年2%の昇給が続きます。
第3章 対外直接投資の落とし穴
海外ビジネスへの拡大に対する批判
p.103 2000年代前半から、経済産業省を中心に、日本政府は人口減少で売上減少で売上増加の期待できない日本市場に頼るのは得策ではなく、売上拡大の機体ができる海外でのビジネス拡大に注力するように推奨してきました。...1つ目は、これまでの繰り返しで恐縮なのですが、そもそも前提が誤っているということです。国内の売上が増えないのは、3割も生産性が上がっている企業部門が実質賃金を低く抑え込み、個人消費が低迷しているからであって、国内投資の採算が取れないのも、そのためです。企業自身がその原因を作っているのです。過去四半世紀に起こった人口減少は、深刻な事態ではありますが、売上という点では、必ずしも致命的な要因ではなかったはずです。国内売上低迷の主因を人口減少とするのは不適切です。
2つ目は、1つ目の裏返しになりますが、海外投資に注力すればするほど、国内人的投資や設備投資がますます疎かになって、「合成の誤謬」が助長される点です。海外での儲けが、国内の実質賃金の増加や国内投資の拡大に全くつながっていないだけでなく、儲からない国内では、コストカットばかりが注力され、それが縮小均衡を招いてきました。いずれにしても、海外からの投資収益が膨らみ、企業業績は過去最高を記録し続けていますが、国内の人件費はほとんど増えていませんし、国内経済への恩恵は乏しいと言わざるを得ません。名目賃金はようやく増え始めたのですが、インフレにはなかなか追いつけず、実質賃金の減少がどうにか止まったのは2024年半ばでした。
3つ目は、海外での生産が増える一方で、それが国内の生産現場での活動に全くつながっていないため、国内でのイノベーションの機会が損なわれていることです。生産現場を持たなければ、創意工夫は追求されませんし、アイデアの交配も生まれません。イノベーションが起きないので、国内の生産能力の増加にはつながりません。いや、むしろ生産能力が縮小傾向を辿るという悪循環が続いています。人手が足りないから、生産能力を増やさないと言いますが、定型的な業務に関しては、それこそロボティックスやソフトウエアで対応すれば済む話であって、国内に生産現場を持つことで、非定型的な業務の課題に直面し、それを解決することが、新たなビジネスやイノベーションの源泉になるのだと思われます。 もう少し詳しく言うと、国内にこそ、単なる自動化やコストカットには留まらない、限界生産性を高めるようなイノベーションの潜在的なチャンスが存在します。もともと、製品やサービスの品質に対して、世界で一番要求水準が高いのが、日本の消費者でした。高齢化によって需要構造は大きく変わりましたが、企業は変貌した需要を取り込む努力を怠っているのです。 少子化からゆぬ企業が、かつての日本社会がまだ若かった頃に成功した古いビジネスモデルを後生大事にし、アジアなどの新興国で適用しようとして、海外進出を進めましたが、それは単に古いビジネスモデルの使い回しに他なりません。これでは、新たなビジネスモデルが生まれないのも当然でしょう。
一部主張に対して理解ができるものの、「海外で生産を増やすと国内の生産現場が失われ、イノベーションの機会が損なわれる」と主張されているが、実際にはグローバル企業が海外で得た収益や知見を、国内の研究開発(R&D)や本社機能、最先端のDX投資に集中させている例も数多くある。海外進出=国内の空洞化・イノベーションの喪失と決めつけるのは短絡的ではないだろうか。
第4章 労働市場の構造変化と日銀の2つの誤算
p.152 日本では、景気拡大局面において、正社員が残業することで、業務拡大に対応してきました。そうした柔軟な労働供給の調整が日本経済に隠れた強みでありました。しかし、リベンジ消費やインバウンド消費で需要が急回復する中、残業時間を増やすことができず、サービスの追加的な供給ができなくなったために、企業は価格引き上げで対応するしかありませんでした。とりわけ飲食業や宿泊業など、労働集約的な部門では、稼働率を上げようにも、人手不足がボトルネックとなってあげられず、インバウンド消費など、強い需要に直面した企業が価格引き上げで対応したのだと思われます。
第5章 労働法制変更のマクロ経済への衝撃
p.183 さて、週48時間から週40時間労働性への移行は完全実施まで6年の長い時間をかけたと言っても、20%も労働時間が減ることの日本経済へのインパクトは甚大であったはずです。本来、10~20%も労働時間が減る場合、時間あたり実質賃金が大きく上昇するため、ユニットレーバーコストの大幅な上昇や資本収益率の大幅な低下を避けるには、10~20%程度、生産性を引き上げなければなりません。しかし、それはまず不可能でしょう。
ちなみに労働時間の短縮は別に日本に限った話ではなく、世界的にもみられた動きでもある。例えば、アメリカではいち早く、世界公共の頃に深刻な不況と大量失業の中、限られた仕事を多くの労働者で分け合う(ワークシェアリング)という発端や、自動車王ヘンリー・フォードがちくいち週休2日を導入した流れを受け、1938年に「公正労働基準法(FLSA)」が制定され、週40時間制が連邦法として原則化された。
第7章 イノベーションを社会はどう飼い慣らすのか
ここでは、より良い日本経済を目指すためにイノベーションが必要とした上で、どのような類のイノベーションが歓迎されるのかをノーベル経済学賞のダロン・アセモグル氏の研究を紹介しながら解説している。
ちなみに、ダロン・アセモグルの研究におけるイノベーションは、主に「自動化技術」と「新しいタスクの創出」という対照的な2つのタイプに分類される。
前者の自動化は、これまで人間が担っていた作業を機械やAIに置き換えることで生産性を高める一方、労働者をその仕事から締め出す「置き換え効果」をもたらし、格差拡大の原因となり得る。これに対し後者は、人間が比較優位を持つ全く新しい役割や職種を生み出すものであり、失われた労働者の活躍の場を再び取り戻す「復元効果」を働かせる。
アセモグルは、近年の技術革新がコスト削減を目的とした自動化に偏りすぎている点を問題視しており、社会と経済の持続的な繁栄には、人間を置き換えるのではなく新たなタスクや能力の補完を生み出すイノベーションのバランスが不可欠であると説いている

